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第6話 壁時計の中の目

last update publish date: 2026-10-14 15:43:39

木島の問いに、詩織はすぐには答えなかった。

「昨夜、あの部屋で貴之に何を飲ませたんですか」

 その言葉だけが、静かな喫茶店の中で妙に近く聞こえる。

 ここで否定することは簡単だった。画像に写っているのはコーヒーカップと自分の手だけで、左手に何を持っているかまでは判別できない。木島が持っているものが一枚の静止画だけなら、それだけで殺人を証明できるはずもない。

 問題は、一枚だけなのかどうかだった。

「まず、その画像をどこで手に入れたのか説明してください」

 詩織が言うと、木島はわずかに眉を上げた。

「否定しないんですね」

「何を持っていたかも分からない写真を見せられて、何を否定すればいいんですか」

「そういう返し方をする人だとは思いませんでした」

「私のことを知っているような言い方をするのはやめてください。主人から何を聞いていたとしても、それは主人が見せたかった私です」

 木島は返事をせず、しばらく詩織を見ていた。

 その沈黙が、貴之のものとは違うことに詩織は気づいた。貴之は沈黙によって相手を不安にさせ、先に余計なことを喋らせる男だった。木島はむしろ、自分が何を言えば損をするか計算しているように見えた。

「分かりました。順番に話します」

 木島はスマートフォンを伏せてテーブルへ置いた。

「貴之と私は、仕事上、人に見られたくない資料を共有することがありました。顧客企業の内部情報や、契約前の調査資料です。普通のクラウドサービスには置きたくないものもあったので、私の会社で管理している暗号化サーバーに専用領域を作っていた」

「そこへ、あの画像が?」

「昨夜、午前零時二十一分から二十六分にかけて、貴之のアカウントから大量のファイルが同期されました」

「大量って、どのくらいですか」

「画像と短い動画を合わせて百件以上。ただし全部を見たわけじゃありません。今朝、貴之が死亡したと知ってから確認したら、その中に奥様の部屋らしい映像があった」

「なぜ私の家だと分かったんです?」

「家具の話は聞いていましたし、何より本人が映っていた」

「主人が?」

「何度か」

 その答えで十分だった。

 カメラは昨夜だけ設置されたものではない。

 いつからかは分からないが、貴之は自宅の中を撮影していた。

「主人は、どうしてそんなものをサーバーへ送っていたんでしょう」

「そこは私にも分かりません。正直に言えば、気味が悪かった。仕事の資料に混じって、家庭内の映像が何十件も入っていたんですから」

「何十件……」

 自分が料理をしているところ。

 一人で食事をしているところ。

 電話をしているところ。

 泣いたこともあった。

 貴之が出張だと言って三日家を空けた夜、誰にも聞かれないと思って声を上げて泣いたことがある。

 それも残っているのかもしれない。

 殺人が撮られていた恐怖とは別のところから、吐き気がこみ上げた。

「全部、見たんですか」

「見ていません」

「本当に?」

「本当です。そんな顔で聞かれても困りますよ。私は覗き見が趣味じゃない」

「でも、昨夜の映像は見た」

「貴之が死んだ夜の記録です。何か手掛かりがあると思えば見るでしょう」

 それは理屈として分かる。

 だからこそ腹が立った。

「警察に渡すんですか」

 木島は少し間を置いた。

「今のところは」

「今のところ?」

「渡していません」

 詩織は木島を見た。

「なぜですか」

「私にも都合があるからです」

「また仕事ですか」

「仕事だけじゃありません」

 木島はそこで初めて、露骨に疲れたような顔をした。

「貴之は人の秘密を集める癖があった。仕事上必要な情報だけじゃない。浮気、借金、会社の不正、家族の問題、昔の失敗。本人が使えると思えば何でも保存していた」

「脅していたんですか」

「脅迫という言葉を使うほど直接的じゃない。あの人はもっと上手かった。『君のために黙っている』『困ったときは助ける』と言いながら、相手に借りを作る。いざというときに、その借りを回収するんです」

 詩織には、そのやり方が想像できた。

 自分も似たようなことをされていた。

 貴之は決して「友達と会うな」とは言わなかった。

 ただ、会って帰宅するたびに「最近、家のことが雑になってるよね」と言った。詩織が仕事を辞めたときも、「辞めろ」と命じたわけではない。「君は仕事と家庭の両立が苦手みたいだから、無理しないほうがいい」と繰り返しただけだった。

 選んだのは自分だと思わせる。

 そのくせ、選択肢は最初から一つしかない。

「玲奈さんの秘密も、主人は持っていたんですか」

 木島の顔が固くなった。

「その話は、今はできません」

「知っているんですね」

「知っていることと、私が話していいことは別です」

「人が一人死んで、一人が自首してるんですよ。それでも?」

「だからです」

 木島は低い声で答えた。

「玲奈については、本人が話すべきです。少なくとも私が勝手に暴露することじゃない」

 そこには打算だけではない何かがあるように思えたが、詩織にはそれを確かめる材料がない。

「あなたが欲しいのは、主人が集めていた秘密の記録なんですね」

 木島の目が動いた。

「どうしてそう思うんです?」

「警察に映像を渡さない理由としては、それが一番自然だからです。主人のサーバーに警察が入れば、あなたが知られたくないものまで出てくる」

「半分は正解です」

「残り半分は?」

「貴之の持っていた記録の中に、警察に渡す前に確認しなければならないものがある」

「あなた自身の秘密?」

「そう考えてもらって構いません」

 木島は否定しなかった。

 その潔さが、かえって信用できなかった。

「だから私に何をさせたいんですか」

「貴之の書斎を確認してほしい」

「警察が調べるかもしれません」

「だから先にです」

「証拠隠滅をしろと?」

「違います。持ち出せとは言っていない」

 木島は身を乗り出した。

「黒い革張りの手帳か、小型の記録媒体がないか見てほしい。見つけても、その場から動かさなくていい。ただ、あるかどうかだけ教えてください」

「そんなことをすると思います?」

「すると思っています」

「どうして」

「奥様も、貴之が何を残したか知りたいはずだからです」

 否定できなかった。

 木島は自分を脅している。

 しかし、その脅しは「言うことを聞かなければ警察へ映像を渡す」という単純なものではない。

 貴之が死後に残した情報そのものを餌にしている。

 そして厄介なことに、詩織はその餌に興味を持っていた。

「映像のコピーをください」

「それはできません」

「なら、取引になりません」

「取引だとは言っていませんよ」

「私の殺人を疑わせる画像を持っていて、警察にはまだ渡していない。代わりに主人の書斎を調べろと言っている。それを取引と呼ばないなら、何と呼ぶんです?」

 木島は少しだけ笑った。

「確かに。貴之の奥さんだけありますね」

 詩織の胸の奥に、冷たい怒りが走った。

「その言い方をしないでください」

 木島の笑みが消えた。

「……すみません」

 謝罪は意外なほど素直だった。

 詩織は席を立つ前に、一つだけ尋ねた。

「主人が部屋から出てきたとき、何か持っていましたか」

 木島は考える。

「スマートフォンと鍵くらいです。鞄はなかった。ああ、それと」

「何です?」

「左手に、小さな黒いケースを持っていました」

「ケース?」

「名刺入れより少し厚い程度です。車に乗ったときにはジャケットの内側へ入れていました」

 詩織はその形に心当たりがなかった。

「駅で降りたときも?」

「たぶん持っていたと思います」

「遺体から見つかったかどうかは?」

「警察に聞いてください」

 もし見つかっていなければ。

 玲奈が持っているのか。

 河川敷に落ちたのか。

 それとも、貴之を最後に見た別の誰かが持ち去ったのか。

 詩織は立ち上がった。

「書斎を調べる約束はしません」

「構いません」

「それから、映像を消したりしないでください」

「意外ですね。消してほしいと言うと思いました」

「消したら、あなたが何を見たか確かめられなくなるからです」

 木島はしばらく詩織を見てから、小さく頷いた。

「分かりました」

 信じたわけではない。

 けれど今は、それ以上確認する方法がなかった。

     *

 午後一時すぎ、詩織は自宅へ戻った。

 玄関の扉を閉めた瞬間、部屋の空気が朝とは違って感じられた。

 何も変わっていない。

 ダイニングテーブル。

 ソファ。

 カーテン。

 朝に外したまま、テーブルへ置いた壁時計。

 それなのに、これまで自分の生活空間だと思っていた場所が、急に誰かの観察室のように見えた。

 詩織はコートを脱ぐより先に、スマートフォンを取り出して壁時計を撮影した。

 もし中に何か入っているなら、触る前の状態を残しておいたほうがいい。

 朝は電池蓋と傷だけを確認した。

 今度は時計全体をゆっくり調べる。

 裏側にはメーカー名と型番がある。量販店で数千円程度で売られている、ごく普通の壁掛け時計だったはずだ。貴之が二年前に買い替えたもので、詩織は「前のでも困っていない」と言ったのを覚えている。

『秒針の音が気になるんだよ』

 貴之はそう言っていた。

 新しい時計は連続秒針で、確かに音はほとんどしなかった。

 今になれば、その理由まで疑いたくなる。

 詩織は工具箱から精密ドライバーを取り出した。

 一本だけ頭の潰れかけたネジ。

 ゆっくり回す。

 ネジは思ったより簡単に緩んだ。

 ほかの三本も外し、裏板を持ち上げた。

 最初に見えたのは、時計のムーブメントと配線だった。

 異常があるようには見えない。

 だが右上に、本来の時計には必要なさそうな小さな基板が固定されていた。

 爪ほどの大きさ。

 そこから細い線が伸び、文字盤側へ入っている。

 さらに側面には小さな記録媒体の差し込み口らしきものがあった。

 詩織は触れなかった。

 スマートフォンで何枚も写真を撮る。

 そして時計を横から見ると、十二の数字のすぐ脇に、ごく小さな黒い点があった。

 今までなら印刷の汚れとしか思わなかっただろう。

 しかし、裏から伸びる線の位置と一致している。

 レンズだった。

 そこからリビング全体を見渡せる。

 ソファも。

 ダイニングも。

 キッチンの一部も。

 昨夜、詩織が貴之のコーヒーを準備した場所まで。

 思わず時計を伏せた。

 見られているはずがないのに、レンズと目が合ったような感覚がした。

 その直後、玄関のインターホンが鳴った。

 詩織の身体が硬直する。

 一度。

 少し間を置いて、もう一度。

 モニターへ近づき、画面を確認した。

 草壁だった。

 朝一緒にいた若い刑事もいる。

 詩織はテーブルを見る。

 分解した壁時計。

 外したネジ。

 露出した基板。

 隠すべきなのか。

 その考えが浮かんだ瞬間、自分で否定した。

 ここで隠せば、あとで発見されたときに説明がつかない。

 何より、この時計は自分を追い詰める証拠であると同時に、貴之が何をしていたかを証明する証拠でもある。

 詩織は時計をそのままにして、玄関へ向かった。

「はい」

『真山さん、草壁です。少しよろしいでしょうか』

「何かありましたか」

『ご主人の所持品について、確認したいことがありまして。それと、ご自宅も少し見せていただきたい』

 逃げ道はなかった。

「分かりました」

 詩織は解錠した。

 草壁は室内へ入るなり、靴を脱ぐ前に言った。

「急に申し訳ありません。先ほど、如月玲奈さんの供述について一つ確認が取れまして」

「確認?」

「ええ」

 草壁はそこで初めて、リビングのテーブルに目を向けた。

 分解された壁時計が置かれている。

「時計、直していたんですか」

「いいえ」

 詩織はもう誤魔化さなかった。

「中に、カメラが入っていました」

 若い刑事が草壁を見る。

 しかし草壁は驚いた様子を見せず、テーブルへ近づいた。

「触りました?」

「ネジを外しました。中の部品には触れていません。写真も撮っています」

「そうですか」

 草壁はレンズの位置を確認し、若い刑事に何か短く指示した。

 その横顔を見ながら、詩織は尋ねた。

「玲奈さんの供述で、何が分かったんですか」

 草壁は時計から顔を上げた。

「彼女は昨夜、ご主人と初めて会ったわけではありませんでした」

「以前から知っていた?」

「はい。少なくとも半年以上前から」

 詩織は何も言わなかった。

「それから、もう一つ」

 草壁は手帳を開いた。

「玲奈さんは、ご主人を刺したことは認めています。ただ、先ほどから供述の一部が変わり始めた」

「変わった?」

「最初は『殺すつもりで刺した』と言っていました」

 草壁はそこで言葉を切った。

「今は、『刺したことは間違いない。でも、本当に私が殺したのか分からない』と言っている」

 詩織の喉が乾いた。

「どういう意味ですか」

「玲奈さんによれば、刺した直後のご主人は、まだ会話ができたそうです」

 詩織は動けなかった。

「しかも彼女が逃げる直前、ご主人は自分の胸の傷より、別のことで苦しんでいたと言っています」

「別のこと……?」

「吐き気と、激しい痙攣です」

 草壁の目が、詩織から離れない。

「解剖の詳しい結果はまだ出ていません。ただ、刺し傷だけが死因ではない可能性が出てきました」

 テーブルの上では、十二分遅れていた時計が裏返され、内部を晒している。

 その黒いレンズはもう詩織を見ていない。

 それでも詩織には、夫の目よりはるかに冷たい別の視線が、自分へ向けられ始めたことが分かった。

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